金城 裕の遺稿~「からて」ところどころ ~

はじめに

 数年前、「空手道集成」と題して、長年親しんできた空手に関する思いを、六巻に纏めたいと考えた。そのことを知友にも吹聴したものである。しかし、生来の怠け癖で、今日は明日はと荏苒と日を送っているうちに、何時しか齢九十歳に近くなってしまった。最近余命幾許もないな、と体で感じるようになった。力盡きたわけではないが、もう纏まった大冊を仕上げることは不可能である。断片的だけれども、力の限り「からて」に対する思いを書き綴っていきたいと思う。

 ふと、時間と労力の浪費と紙の無駄使いになるかも、との思いも湧いてくる。他方、「からて」が世に出てから百年の時を経た現在、その名がこれほど世界に知られながら、「からて」というものの実態が、よく知られていないのではないか、という心配もある。空手の専門家と自負している方のなかでも、失礼ながら、空手に疎いのではないか、と氣になる御仁を屡々見受ける。

 現在全世界の空手人口は、五十万人といわれている。この数字は何を根拠にし、またどんな調査の結果か、よくわからない。が、それほど大きな空手人口だ、とご理解いただければよいと思う。特に最近若年層の空手人口の増加が目立つ。このことは、空手人口の裾野が広がるという意味で、たいへん喜ぶべきことである。しかし、空手愛好家が増えれば増えるほど、立派な専門家の指導者が多く要求されることも忘れてはならないのではないか。

 ご承知のように空手の世界には、流派なるものが数えきれぬほどある。本来空手には流派はあってはならぬものであるはずである。これは私の独断でなく、空手成立の歴史を知れば誰でも納得するはずである。この空手の成立の歴史については、別に改めて論述したい考えである。

 子供を指導するのに、それほど高い専門知識は要らない、と誤った考えを持っている人に会うことがある。これほど子供の人格を無視した考えはない。人格形成期にある子供だからこそ、立派な指導者が必要じゃないのか。大人は自らの批判力を持っているから、高度な専門知識と技術を持った指導者は要らぬ、という意味でもない。指導者と称する者には、社会的奉仕という大きな使命があることも忘れてはならぬ。社会的責任を果たすためには果たし得る能力を、確り身につけることが求められる。当たり前の話だけれども、金銭欲、名誉欲等俗的な発想では到底無理と思う。特に空手のような格技においては

金城 裕の遺稿~ 本部朝基の思い出 ~

はじめに

(一)
 何しろ七十数年も前の昔語りだから、記憶もいささかおぼろおぼろになっているところもある。大正末期から昭和初期にかけての、子供のころの生活について書き連ねてみたいと思う。昭和初期の子供の生活誌を書いてみようなんていう、大それた意図があるわけではない。あの当時の庶民は皆貧しかった。しかしなんとなく心にゆとりがあって、生活も自然で夢と笑いがあった。年の所為か漫ろ郷愁をそそられる。

 現在当時の村の十字路には、信号が設置され、近くでネオンが輝き自家用車、タクシー、バスが引っ切り無しに通るようになって、村は様変わりしている。このような時代に、時たま荷馬車は通っても、自家用車なんてほとんど見ることのなかった、昔のことを書いて、何かの役に立つことがあるのか。紙の無駄使いで意味がないのではないか、と考えなくもない。

 これまで毎日が多忙で、ゆっくり少年時代のことを考えることはなかった。最近心に少しゆとりができて、子供の頃を振り返ることがある。勉強嫌いで腕白坊主でその上間抜けなところがあった。しかし、失敗すると反省することしきりだった。反省というとちょっと大袈裟だけれども。その所為でもあるまいけれども、小学校卒業の時の同級生の氏名は今でも全員忘れずに覚えている。また小学校から中学校にかけて、学校では有名な先輩、または時たま沖縄を訪れた有識者などの講演があった。そのことも人物内容ともおおむね記憶にある。

 一例を挙げると既に故人になられたが、かつての貴族院議員男爵伊江朝助さんの講演を拝聴したのは、小学校の六年生の時であった。久し振りに東京から帰郷されての感慨についてのお話だった。石川啄木の「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」という短歌を引用されてご自分の帰郷の心境を話された。それまで啄木という名も知らなければそんな短歌があるということも全く念頭になかった。しかし、伊江男爵のお話には何かほのぼのとしたものを感じた。

 それまで友達の家で、時々百人一首の歌留多取り遊びもやっていた。また、少年俱楽部という少年向けの月刊誌に滑稽和歌の投稿欄があって、その欄も毎月興味をもって目を通していた。「先生のおしえここぞと思えども押すに押されぬ肥車かな」というのがあって、思わず笑い出したものである。

 歴史の教科書の短歌には関心があった。伊江男爵のお話に触発されて啄木の歌を詠んでみたい、と関心をそそられたが、ついに歌集を手にすることはなかった。啄木の歌集を手にして読んだのが、伊江男爵のお話から二年後の中学二年生の時だった。

 中学一年生の時は夏目漱石の「坊ちゃん」に心を引かれて七回も繰り返し読んだ。岩波文庫の「坊ちゃん」で、同じ岩波文庫から「石川啄木歌集」が出ていることを知った。値段はよく覚えていないが、二十銭ほどだったと思う。この文庫本は昭和十四年上京するまで愛読した。

「かにかくに澁民村は恋しかり思い出の川思い出の山」の澁民村に一度行ってみたいという夢を持つようになった。しかし、その夢はなかなか叶えられなかった。夢が実現したのは、七十才を過ぎてからである。これまでに夫婦で三回も澁民村を訪ねた。東京都内にある啄木の歌碑はすべて回った。足腰の丈夫なうちにもう一度啄木記念館と澁民村を訪ねて、「やわらかに柳あおめる北上の岸辺目に見ゆ泣けと如くに」の北上川の岸辺に立ってみたい。私は熱狂的な啄木ファンでもない。ただ啄木の歌が私の心を誘うだけである。

(二)
 亡くなられてから六十年以上も経つので、記憶に留めておられる方も、もう少ないと思う。有名な拳豪で、本部朝基というご仁がおられた。若い世代でも、空手を修業されている方は、多少お名前をご存知と思うが。

 私と本部朝基との出会いは、奇縁と表現したほうが相応しい。後程詳しく書くけれども、六歳の時障子の穴越しの出会いだったからである。

 私より一つか二つ年上の幼な友達に豊見山五郎というのがいた。小児結核で夭折したが、何事につけ私の上に立ちたがっていた。年上という理由だけでなく、いつも青い顔をしてゴホンゴホンと咳をして少々発育不良の感があって、肉体的に自信がないので、年長者の知恵で、いつも私をリードしたい様子が見え見えだった。

 その五郎が、或る日私を呼びに来た。本部のサールー(サールーとは猿の方言)が家に来ているので見せてやる、とのことである。五郎の家は三軒目の隣である。急いでついていくと、表座敷に本部サールーがいるから障子の穴から覗いてこいと言う。子供心にも穴から人様を覗くというのはいささかの抵抗とためらいがあった。が、平素憧れの大拳豪の顔を見ることができるという喜びで勇気を振るい興して、五郎からの指図に従って障子の穴から座敷を覗いた。表座敷の真中に腕を組んで胡坐をかいている厳つい顔の中年小父さんがいた。第一印象は少し怖い顔で明るい感触はなかった。障子の穴越しの出会いといっても、先方はこちらが何者か知らない。多分子供の悪戯ぐらいにしか考えていなかったと思う。しかし、こちらは大満足だった。後日友達に本部サールーに会ったことを吹聴したものである。一方五郎は自分の側には本部サールーが居るぞ、と私に圧力をかけた積りでいた。

 穴越しの出会いから十三・四年後、外祖父の家で偶然本部サールーと会い、初めて対話の機会に恵まれた。外祖父と本部サールーは知り合いの様子で、外祖父のほうが年長だったが、彼に対しては丁重な言葉使いで応対していた。その時私は中学校の上級生で空手部に所属、空手も十年以上修練を積んでいた。しかし、空手の話にはあまり触れなかったと思う。記憶に残っているのは、一本拳で柱を突いてみようか、柱が凹むよ、と右手の一本拳を作って見せたことだ。一般に一本拳といえば中指を立てるものだが、本部の一本拳は、人差指を立てていた。意外に思ったことが強く印象に残っている。しかし、外祖父も私も一本拳で柱を突くという演技を所望しなかった。

 そのことがあってから、約二年後の昭和十三(一九三八)年十月二十日の沖縄神社祭の奉納演武で珍しく同席する機会を得た。予て外祖父から聞いている、本部は不世出の大拳豪といわれているが、ほんとは卑怯者で彼が勝った話の半分は騙し討ちだったらしいよ、との話が頭の中にあった。それでそのことを確かめてみようと思い付いて、騙し討ちで多くの相手に勝ったという噂ですが、ほんとの話ですか、と遠慮深くそっと尋ねたところ、騙される奴が悪いんさ、と吐き捨てるように言われた。当時私はその言葉に決して納得できなかった。矢張り世間の噂通りのご仁かと思ったものである。

 しかし、後年約半世紀も経った頃、彼の騙しの手に翻然悟るところがあった。それで彼の「騙される奴が悪いんさ」と言った語録を「騙しも技の内」と表現して、彼の騙しの技を披露した。

金城 裕の遺稿~今は昔 少しいかれた話 ~

(一)村で
 幼年時代の親しい友達に五郎君というのがいた。正確には豊見山五郎である。私より一つか二つ年上だった。小太りの子だったけれども、今にして思えば決して発育のよいほうではなかった。一緒に遊びながらも、オッホンと軽い咳をしていた。

 安富祖流三味線の大家豊見山安均の末子で、長兄とは親子ほど年が離れていた。ターリー(お父さん)と呼んでいた父君は、それほどでもなかっただろうが子供の目にはとても老人に見えたから、多分アヤー(お母さん)と呼ばれていた母堂は、二度目の奥さんではなかったかと思う。

 五郎の家は、私の家から三軒目で、隣り近所ということもあって、お互いの家に行ったり来たりして、よく遊んだものである。現在の子供の世界からは考えらないことだが、二人とも遊び道具らしき物は持っていなかった。大正時代は、子供の遊び道具とかいう物は、「の日」といって、年一度の玩具市の立つ五月四日に、親について行って買ってもらう、というものだった。兄弟の多い貧しい家庭では、それもかなえられなかった。

 市の立つ当日の池端町の通りの混雑は今もって忘れられない。四日の日は、前の晩から興奮して却々寝つかれなかったことを覚えている。当時は、現在の豊かな沖縄の経済生活からは、とても想像できぬ貧困の時代だった。貧困に加えて、子供の人権を尊重するような思想もなかったので、子供に買ってもらった玩具がなかったのも、決して珍しいことではない。たとえ年一度買ってもらったとしても、それが一年間も手許にあるはずがない。それで遊び道具は自分で作るか、手近にあるものを何かに見立てて遊ぶというものだった。

 ある日、私、五郎、朝正(父君浦添朝顕氏は、五郎の父君とは三味線の同門のはず)と三人でたわいもない話をして遊んでいると、五郎が突然、面白いことを教えてあげよう、と二人を自宅の裏につれていった。そこには、天水を溜める大きな水甕が三つあった。水甕は三分の一ほど土に埋め込められ、確り固定されていた。

 五郎は三つ並んだ一番手前の水甕に、ゆっくりとまたがった。大きく開いた円形の縁に両手をついて、ちょうどがえるスタイルになり、尻を上げて顔を甕の中に沈め、大きい声でオーイと叫んだ。別になんということはないけれども、甕の中から声が湧き出てくるような感じだった。
声がとても耳に響くよ、ほらお前達もやってみろ、と五郎に促された。

 私は子供のころ、あまり利口な子ではなかった。人に言われるとなんでもその通り実行した。それで、なんでこの子はこんなに馬鹿だろう、とよく母に怒られたものである。朝正はためらっていたが、私は早速隣りの水甕にまたがって、五郎がやったように、水甕の中に頭まで突っ込んで、大きい声でオーイと叫んだ。自分の声でない別の人のような大きい声が耳に響いた。だが、面白いともおかしいとも思われなかった。

 水面に映っている自分の顔をいていると、それまで底に沈んでいたが、体をくねくねくゆらしながら水面近くに浮いてきた。甕の縁を手で叩くとすうっと沈む。じっとしていると体をくねくねさせながら、無数の孑孑(ぼうふら)が浮いてくる。縁を叩くと、またすうっと沈んでいく。動きがあって、このほうが面白いと思った。五郎に声をかけると、早速彼も孑孑を相手に甕の縁を叩いたり、大きく声をあげたりで楽しんでいるようだった。

 そのうち、あっという五郎の声に顔を上げると、五郎の姿はもうなかった。

 朝正が豊見山家の勝手口に向かって走り出したので、私も甕から飛び降りて、彼の後について走り出した。通りに出たところで我に返った。これは大変だ、と引っ返して五郎のアヤーへ、五郎が甕に落っこったあ、と大声で注進に及んだ。私の急注進に仰天したアヤーは、裸足で飛び出してきた。走り出したとたんに、着物の前がはだけて二つの白い乳房がぶら下がっているように見えた。素肌に長い白い袴を穿いて、すごい形相で前かがみで泳ぐように片手を前に出した姿に、私は改めてびっくり仰天、踵を返して一目散に家へ逃げ帰った。

 が、今日の出来事は、母に話さなかった。毎日怒られてばかりいたので、水甕の一件を話すと一大事、と思ったので黙っていた。しかし床に就くまで、五郎のアヤーが今にも来るのではないか、とびくびくだった。

 次の日も午前中は心配だったが、びくびくするというほどのことでもなかった。午後五郎がやってきたので、子供心にも何か心のがとれたような気がした。

 五郎の語るところによると、アヤーに水甕から引き出された後、元気を取り戻してから、こっぴどく怒られたらしい。あの水甕には、カーガニモーという魔物が住んでいて、甕に上がってふざけたので、カーガニモーが怒って、みせしめに五郎を引き摺り込んだらしい。五郎の雄弁な語りに、私は感心し納得した。と同時に、今まで知らなかった、目に見えぬ未知の世界のあることは驚きだった。

 五郎は、アヤーのお説教を披露したくて、やってきたようだ。彼も私と同じく、新しい未知の世界を知り得たということは、今様で言うと大きなショックだったらしい。私のところも、裏に水甕が幾つかあったので、うちの甕にもカーガニモーが住んでいるのだね、と五郎に言うと、どれどれと家の裏に回って、遠くから甕を眺め、うん大きい甕だ、大きなカーガニモーが住んでいるかも知れないね、ともっともらしい講評を与えてくれた。自分の屋敷内に、幾つもの大きなカーガニモーが住んでいることは、不気味で怖いような気にもなったが、生まれつき脳天気な性格の私は、目に見えぬ猛獣を飼っているようで、誇らしくもあり、いささか心中愉快でもあった。

 うちへ行こうと五郎に誘われたが、昨日のことがあるので、アヤーに怒られるのではないか、としり込みをした。何度も大丈夫と太鼓判を押されたので、おっかなびっくり彼について行った。勝手口から彼について入り、台所から座敷へ上ったら、直ぐアヤーが出て来たので、びっくりして立ちすくんだ。アヤーが相好を崩して優しい口調で、裕はお利口だねぇ、と話し掛けたので、ほっと安心はしたものの、何がお利口か意味は分からなかった。

 安心して畳に腰を下しフイフイグワーという手製のおもちゃで、音を出し合って遊んでいると、アヤーがおやつにかした薩摩芋をくれた。その時、昨日五郎が水甕に落ちたのに、朝正は雲を霞と一目散に逃げたが、裕はよく知らせてくれた、ほんとにお利口だねぇ、と改めて二度三度と褒められた。これで先ほどの、お利口だねぇの意味が理解できた。これまで怒られることはあっても、褒められたことのなかった私は、とても気分がよくなって、子供心にも、よし今度五郎のようなことがあったら、直ちに誰かに知らせてやろう、と心に誓ったことである。しかし、その後今日まで、ついにその機会がなかった。寧ろ幸いと言うべきであろう。

 五郎、朝正と私三名は、お互いの家が隣り近所ということもあって、幼年時代の親友であった。朝正の家は旧貴族の家系で、家屋敷が広く、家具その他に珍しい道具類もあった。広いうえに部屋数が多かったので、雨の日に遊ぶには格好の場所だった。朝正は育ちの良さか、生来の臆病者か、何か変わったことが起きると、直ぐ大仰に慌てふためくという癖があった。その慌て方がとても面白かった。

 これは後年の話だけれども、五郎の件から四、五年経って、こちらはの悪童に成長していた。昭和五年ころの話である。五郎の家の隣りに、板良敷という家があった。その家で十頭ほどの山羊を飼っていた。その中に群を抜いて大きい、いかにもボスといった感じの雄がいた。

 或る時悪童仲間の国吉太郎が板良敷の爺さんにひどく怒られたから仕返しをしよう、と相談を持ち掛けてきた。何か面白いことはないか、と手持無沙汰のところだったので、オッチョコチョイの私は、事の是非も考えず、何故怒られたかも聞かず直ぐに乗ってしまった。
 しかし、太郎はこれという案は持っていなかった。それで、あの雄の山羊を逃がしてやったら、と提案した。太郎も雄山羊の存在はよく知っていて、あの大きな山羊が村中を走り回ったら皆喜ぶだろう、と満面に笑みをたたえて賛成した。どうせ役に立たないとは思ったけれども、朝正にも計画を話した。一緒に手伝うことはできないが、見たいから連れて行ってくれ、と懇願されたので、同行を許した。

 太郎と私は、事が終わって逃げるのに都合のよいように裸足、朝正は下駄をはいてついてきた。板良敷の家の横から山羊小屋にそおっと侵入、ボス山羊の繋がれている縄をほどこうとしたが、固く結ばれていてなかなか解けない。

 そのうち山羊が鳴きだした。これは駄目だと思い、帯の間にくるくる巻いて持っていた肥後守(ナイフのこと)を出して縄を切った。山羊はメヘヘフッフッと声をあげて、小屋の入口から出て道路を曲がって表通りへ走り出した。二人とも急いで道路へ逃げた。家の横で私達の作業を見守っていた朝正は、頭を下げて大きな角を上に向けて走り出した山羊の勢いにびっくり仰天、うわーと大きな声をあげて、板良敷家に走り込み、下駄をはいたまま畳の座敷に上って足踏みしながら、大変だ大変だと大声で騒いだ。

 それまで静かにお茶を飲んでいた老夫婦が、朝正から大変だの理由を聞き出すには、多少の時間がかかったようだ。爺さんがあたふたと家から出てきたときは、山羊の姿はかなり遠くへ見えた。直ぐ隣りの五郎の門の陰から、爺さんが急いで山羊の後を追う後ろ姿を見届けた二人は、顔を見合わせて、事が計画どおり運んだことを喜び合った。長居は無用、と揃って近くの遊び場所桃原に引き揚げた。が、桃原毛と板良敷は近いので、決して安全な場所とはいえないから、矢張り村の遊び場所である、遠いほうのウチンガー毛に退避した。

 この近くに遊び友達の伊波太郎の家があるので、訪ねてみようということになった。通りから声を掛けたら、待っていました、とばかりに直ぐ出てきた。

 彼の家に上がり込んで、隣りに大きな蜂の巣があるとか、通りの側溝に牛の角が落ちていたとか、最近の情報を聴いた。私達も今日の山羊の一件を詳しく話してやった。すると彼はよほど興味をもったらしく、この次は自分も是非連れていってくれ、と頼まれた。

 やっと安全地帯に逃げ延びてほっとしたところで、未だ山羊のボスを放した時のスリルと興奮が治まっていないのだ。それに追手の心配も全くないわけでもない。二回戦を演ずる心のゆとりがあるはずもなければ、もちろんその計画もなかった。それで、太郎今度はきみがやってみたら、山羊小屋へ案内してやるよ、と話した。うんそうだね、と気のなさそうな生返事をしたので、それ以上勧めなかった。

 その後どんな話をしたか覚えていないが、段々と気が落ちついて、平静を取り戻すと、国吉太郎が板良敷の爺さんに、なんでこっぴどく怒られたか、肝心なことを聞くのを忘れていたのに気づいた。おい太郎、なんで板良敷の爺さんに怒られたんか、と聞いた。

太郎の話は、その時の状況説明に始まって、身振り手振りよろしく、延々と続く。彼の話の大筋はこうである。いつものように家の近くの桃原毛に遊びに行ったら、遊び相手の常連がいないので、加良川に行けばきっと誰か蟹捕りでもしているのでは、と足を延ばしたが、そこにも誰もいなかった。

 拍子抜けした彼は、なんの気なしに小石を拾って板良敷の芋畠に加良川越しに投げ込んだ。加良川は小さな川で川べりにはデーク(暖竹)が生い茂って、こちら側からは畠の様子は全く分からない。誰もいないと見込んで二回目の小石を投げ込んだら意外にも爺さんに当たったらしい。

 当たり前のことだが、爺さんは怒って大きな声で、「タニヒヤーガ」と怒鳴った。太郎は黙って逃げればよいものを「ホーヒヤーヤサ」と返して、爺さんが畠から出て来る前に、いち早く姿をくらました。本人はそのつもりだったようだが、爺さんに後ろ姿を見られたらしい。

次の日、不覚にも板良敷の前を通ると爺さんに捕まって、板良敷の座敷に引きずり込まれ、散々お説教をくったあげく、学校の先生に言いつけるぞ、と脅かされたようだ。太郎が投げた小石は爺さんの頭に当たったけれども、作業用の(びろうで作った笠)をかぶっていたので、幸い爺さんに怪我はなかった。

 話を聴いていて、どうも非は太郎のほうにあるように思えた。太郎の話に乗って山羊を逃がしたことが、いささか後悔された。話が聴けたので、さあ帰ろう、と左右に分かれて二人別々の道を選んで家路についた。

 家の近くまで行って驚いた。母がむずかしい顔をして、家の門前に立っているではないか。いつものことながら、今日の山羊のことでも、怒られることはかねて覚悟していたものの、今日は様子が少しおかしい。まずいことになったな、と思ったが引き返すわけにもいかないので、腹を決めて門に近づくと、母は家に引っ込んだ。

 母の後から家に入り、足を洗って座敷に上ったら、例によって例の如く、そこに座りなさい、と正座させられた。山羊がお前さんに悪さしたわけでもないのに、人様の山羊小屋に泥棒みたいに忍び込んで山羊を逃がす、しかも繋いだ縄を刃物で切るとはどういうことか。間違って山羊の首を切ったり、自分の手でも切ったらどうなるか。板良敷の爺さんに警察へでも訴えられたら、お前さんただではすまないよ。この前中山の子の脳天を叩いて気絶させたときも、先生の往診料やら薬代を上げて勘弁してもらったじゃないか。もうそのことも忘れてしまったのか、と平手で続けざまに左の頬を張り飛ばされた。右に倒れかかった上体を正面に直すと、また張り飛ばされる、という具合に三、四回続いたか、と記憶する。

 不思議に、母は左手を使うことはなかった。

 それからまたお説教が始まる。お前さんのことを隣り近所の人はなんと言っているか、分かっているのか。あの子はいかれているから、おだてればウワードーニ(豚の給餌用に木を削って作った舟形の頑丈な給餌箱、一般に赤木を用いる)でも担ぐさぁ、と言っているよ。母さんはほんとに悔しいよ、と涙を流しながら、また二つ、三つ叩くのであった。私は涙を流しながらも、決して自分から悪かった、と謝ることはなかった。悪かった、と思うか。はい。ほんとに悪かった、と思うか。はい。ほんとにもう二度とやらないね。はい。ほんとだね。はい。ということで、いつもは折檻お説教が終わって、解放ということになるのだった。

 が、その日は違った。お前さんには、母さんほとほと疲れたよ。父さんはアメリカに行ったきりで、言いつけてもらうわけにもいかないし、隣り近所からは苦情がくるしで、今度こそ感化院に行ってもらおうと考えているよ。いいかねぇ。感化院の話は今日が初めてでもないし、監獄の次に悪いところだ、と聞かされているので、ほんとに連れていかれたのではわぬ、こりゃあと大変なことになる、と恐れをなしてきっぱり、いかない、と断わった。すると母は、お前さんはほんとに母さんの手に負えなくなったよ、もう感化院にお願いするよりほかに手がなくなったよ。私は改めて、行かない、の問答を幾度か繰り返して、二度と人様に迷惑を掛けるようなことをしない、と当てにならないけれども、一応固い約束をさせられる。さらに国吉の太郎と遊んではいけないよと宣告されて、長い重苦しい空気から解放された。

 しかし、まだ後がある。床に就いてから、母は私の枕元に正座して、「‥‥天なる父よ、どうかこの子の罪をし給え、この迷える小羊を正しく導き給え‥‥」と敬虔な祈りを捧げるのであった。母は熱心なクリスチャンで、毎晩就寝の前に、祈りを捧げることを忘れなかったようである。母はいつも夜遅くまで起きていた。だから、私は母より先に独りで床に入って寝るのだった。

 しかし、朝目が覚めると母はもう起きていて台所仕事をやっていた。大人は夜遅く寝て、朝も早く起きる、いつ寝たか起きたか分からぬ超人的な存在のように思えた。僕は床に入って横になると、直ぐ寝入って、朝まで目が覚めることは、めったになかった。それでも、年に幾度か怖い夢を見て夜中に目が覚めることがあった。その時不思議にも、母の乳房に手を遣っていた。柔らかいけれど少し弾みがあってぬくもりのある感触に、ああ間違いなく母と共にいるという安らぎと満足感でそのまま眠り続けるのであった。

 昭和四(一九二九)年夏の話である。この年私は沖縄男子師範学校附属小学校の五年生になっていた。男女共学で受け持ちは富川先生だった。

 話が大分横道へそれてしまったが、話を元に返す。

 山羊の件があってから二日か三日ほど経って、いつもの遊び場所桃原毛で、国吉の太郎に会った。私の姿を見付けた太郎は、いつもはそんなことはないけれども、急ぎ足で駆け寄ってきて、「イエー、ワンネー、ターリーンカイ、マチウタッタッサー」と言った。

 板良敷の爺さんは、僕のところに苦情を持ち込んだその足で、太郎の家へ行き、親父へ縷々苦情を述べたらしい。親父がかんかんになっているところへ帰ってきた太郎を、ものも言わずいきなり座敷の真ん中へたたきつけ、倒れたところを引きずり起こして、三つ四つぽかぽか殴りつけ「馬鹿者裕と遊んでは駄目だぞ、あんな指のつぶれた餓鬼と遊んでいると、お前は指どころか手も無くなってしまうぞ、分かったか」それで終わりだったらしい。が、暫く座敷がぐるぐる回っているようだったよ、あっはっはあ、どれつぶれた指はどれだったかな、と言って僕の左手をとり薬指を見て、少し恰好は悪いがちゃんと爪も生えてきたね、と指先がつぶれてから一年がかりで、指らしくなったことを祝福してくれた。

 ところが、それからおよそ三か月ほど経って、皮肉にも太郎は右中指が曲がらぬほどの怪我をすることになる。その経緯はこうである。話を豊見山五郎に戻したいが、却々戻れない。

 私の生家は桃原町の一丁目の七番地である。一丁目の一番地は、与那城という家であった。私が物心つくまで、醤油と味噌を造っていた。男手がなくなり、女ばかりの所帯になってから、家運が傾いて、もうそのころは廃業に追いやられていた。私の生家も味噌醤油を造っていたが、父が渡米して女所帯になったので、家業が成り立たなくなった。もっとも女傑だった祖母が老齢になり、しかも光を失い、俄か盲では仕事の手だてができなくなった故のようである。

 話は少し長くなるけれども、隣りの宮城家は、未亡人独りで男衆を使って、結構手堅く味噌醤油造りに精を出しておられた。きっと経営の才があったのだろうと思う。今思い出すけれども、当時別の村には未亡人で造り酒屋を経営しておられた方が、崎山町には島袋家、金城町には宮城家とあった。特に島袋ツルさんは、後年飛行機の愛国号に一千幾百円か寄付して表彰を受け、話題をまいたものである。当時の一千幾百円というのは大金で、首里の町では大きな家屋敷が買えたし、私の家で質屋を開業した時は、開業資金が二千円だった。東京の下町では、五百円で長屋が一軒できたという時代の話である。それはさておき、首里の町でも経営の才格のある女性がかなりおられたということではないかと思う。

 さて、太郎の怪我について書かねばならない。桃原町一丁目一番地は与那城家であることは先に書いた。

 この与那城家の屋敷内に枇杷の木があった。毎年秋になると黄色く色づいているのが石垣越しに道路側から見えた。小学校への行き帰り目についたので、その実の小振りだったことまで記憶している。きっと、家人が実を食べた後捨てた種が、自然に芽を出し成長したものであろう。昭和五(一九三〇)年の秋も例年のように、この小振りの枇杷の実が色づき始めた。これまでも、毎年の秋実が熟れ始めると目につくので、そのうち黙って失敬しようか、と考えないこともなかった。が、与那城家の家人とは深い付き合いこそなかったけれども、母のお遣いで時々訪ねることがあった。ということで、与那城家の家族とは顔見知りだった。だから黄色く熟れている枇杷の実を見て心がはやっても、まあ我慢しておけ、と行動は起こさなかった。

 この与那城家には、二人の出戻りの姉妹がいた。あのころとても小母さんに見えたから、きっと四十代の姉妹だったと思う。ある時、母のお遣いで訪ねたら、ちょうど姉妹でお茶にしようというところだった。長火鉢に鉄瓶をかけてあったから、多分冬のおやつの時間だったかも知れない。姉妹の名前は失念したが、姉が妹に、薬缶のお湯は沸いたか、と尋ねたら、薬缶に指を突っ込んだら分かるさ、と返事が返ってきた。姉が、アッキョー(あら)お前さんのその物言いは何よ、と言っているうちに、鉄瓶がチンチンと鳴った。姉は黙って二人分お茶を入れて一つは妹の前に置いた。姉妹は何事もなかったように、黙って仲よくお茶を飲んだ。

 妹は立ち上がって硬くなったの饅頭(真ん中に「の」と大書されている饅頭)を、三つほど持ち出してきた。火鉢の鉄瓶を金網に替えての饅頭を乗せた。姉のほうの小母さんが向きを変えて私に話しかけた。なんのお遣いだったかお遣いの内容は定かに覚えていない。私は廊下をてた軒下に立ったまま、姉妹は座敷の長火鉢を中に向かい合っていた。私と話すには向きを変えねばならない。お遣いの口上を述べて、なんだかんだと遣り取りをしていると、妹のほうが、はい姉さん、と饅頭を火箸で挟んで差し出した。妹のほうに向きを変えて、左手を出して受け取ろうとした途端、あっと小さい声を上げて、饅頭を火鉢の灰の中に取り落とした。饅頭が熱かったのか、受け渡しのタイミングが悪かったのか。妹はすかさず、火箸で饅頭を取り上げて姉のほうへ差し出した。姉は怒って、灰の中に落っこちた物が食べられますか、と文句を言ったら、妹は平然として小さい声で、食べてから口を洗ったらいいさ、と言った。それでよかったらあなたが食べたら
よい、と姉は反論した。なんだか芝居の喜劇でも見ているようで、つい声を立てて笑った。

 遣いの返事よりも、姉妹の喜劇の一幕を母に話したくて急いで家に帰り、姉妹の一幕を見たまま母に伝えた。聴き終えた母は、笑いもせずに、あの家は変わっているからね、と言った。なにしろあの当時はまだ子供で、母のあの家は変わっているからね、ということの意味と母の心がよく理解できなかった。自分が可笑しかったと思ったことを、母と共有しようと思って期待して話したものが、もない返事にがっかりした。それまで可笑しいと思っていたことが、面白くも可笑しくもなくなってしまった。

 母の言葉の意味が分かったのは、幾年か経った後のことである。書けば長くなるけれども、途中下車した積りで、暫く時間を頂きたい。

 私と年の離れた従姉に、静子というのがいた。与那城家に嫁して間もなく、夏だったかもしれない、座敷で昼寝をしたらしい。嫁の昼寝を見つけた姑が、しつこいお説教をしたので、年寄りはうるさくて仕様がない、早く死ねばよい、と口答えをしたものだ。今の世の中では、ちょっと考えられないことだけれども、姑はえらく頭にきたとみえて、お前さんは家の嫁に向かないから帰ってくれ、と即日離婚の印導を渡した。本人の意志はもちろんのこと、夫である自分の息子の意見も眼中になく、ただ親の利害損得感情だけで、慰謝料の話もなく、闖入してきた野良猫を追い出すように婚家を追われた、という明治末期の物語である。静子はその後幾年かして、寡夫になった従兄と再婚することになるが、その一生は決して幸福ではなかった。

 昭和十一年ころだったか、儀保町の醤油屋知念家の息子で、県立病院の小児科医長をしていた方がおった。あるときその人が、皮の黒鞄を下げて与那城家の前を通った。格子戸越しにその姿を見た例の妹が、隣りにいた従弟に、とてもいい男だね、と囁いたら、すかさず従弟は、急いで追っかけたら、と言った。このやり取りで、いつか母があの家は変わっているからね、と話していたことを思い出した。今度は、なんだか笑えなかった。話はまた少し横道にそれるが、皮肉にもこの従弟は私の叔母(母の末の妹)と結婚して東京に出たが、一年も経たぬうちに離婚してしまった。

 この姉妹に弟がいた。お手伝いさんとの間に桃子と太郎という二人の子供がいた。私がこの家に出入りするころには、このお手伝いさんは与那城家にいなかった。二人の子供は、伯母である姉妹で面倒を見ていた。生活費は時々米国で働いている父親から仕送りがあるということだった。

 この姉弟の名前は、鬼退治で有名な桃太郎物語から借用したものか、と会ったこともない姉弟の父親にほのぼのとしたものを感じた。また、旧藩主尚泰侯の孫である故侯爵尚昌夫人桃子は、小笠原家から嫁してこられた方である。傾きかけた我が家を想い、侯爵夫人にるように娘の幸福を願って名づけたかも知れない。私の思い過ごしか、とも思うが。この桃子太郎姉弟が生まれた昭和六年ころは、侯爵一家が沖縄を訪問されたこととも符合する。

 この姉弟の父君は、ブラジルに移民で出掛け、その後米国へ密入国してバークレー市附近で細々と働いていたが、昭和十四年ころには、米国のバークレー市周辺では見掛けなくなった、ということであった。

 また、姉妹の妹のほうは、私の母が最初に嫁した伊野波家(母は九年間も子供ができぬということで姑から追い出された)の後添いだったが、主人の没後子供がなかったので、生家に帰っていたのである。後年与那城家は一家離散するけれども、どうも支離滅裂な家庭だったような気がする。それにしても、目には見えないが、見えない裏では、何か蜘蛛の糸でも繋がっているのでは、と思われる百世帯足らずの奇妙な村だった。

さて、与那城家の石垣越しに見える、色づいた枇杷の実は、悪童どもの好奇心をそそる格好の好餌である。実を捥いで食べる、という食い気よりも、家人の隙を狙って目的を達成した、という満足感、その過程のスリルの味がこたえられないのだ。

目的を達するには、人目につかぬ晩が一番の好機である。しかし、現在と違って街灯らしきもの、軒灯という気の利いたものはなし、夜の帳がおりると、商店街を除いて全くの暗闇となってしまう。といって提灯を持っていく訳にもいかないし、本格的な泥棒でもないので、懐中電灯という便利な小道具を用意することもないし、またその金もない。

 ということで、行動を起すのは、もっぱら日中家人の隙を狙う、ということになる。今のようにパート勤めとか何かで、家人皆留守になる、というような時代と違い、留守の家が極めて少ない時の話である。行動を起すタイミングを図ることが、なかなかむずかしい。

 太郎は石と石との小さい隙間に、手や足の指を突っ込んだり引っ掛けたりして、石垣の上縁まで攀じ登り、家人の様子をった。石垣にしがみついて、辛抱強くなおも家の中を注視したが、人の気配がない。まだ日差しの暖かい季節だから、障子をたててないので、家の中が丸見えである。

座敷に人気のないのを見定め、石垣に立ち上がって枇杷の枝を掴まえて手許に引き寄せ、黄色い実を捥ぎ取ろうとした途端、ウエッサ(これっ)と庭の隅から小母さんの大きな声がした。遠い座敷ばかり気にして、足元に気づかなかった太郎は、虚を突かれ吃驚仰天。今し方攀じ登った石垣の上縁に手を掛けて道路側へ飛び下りて両手をついた。その瞬間、手を掛けた十キロほどの石が右手指の上に落っこちた。ぎゃっと叫んで、左手で右指を甲の側から握って、お母さんお母さんと大声で泣きながら転げ回った。

 だが、太郎は気を取り直して、泣きながら走って家に帰った。太郎の傷を見た父親は、中指がぐしゃぐしゃに潰れているのに一瞬たじろいだが、頑固者で気丈な彼は、早速独自の応急手当てを始めた。まず消毒だということで、石油を傷口に流した。傷の痛さにひいひい言っているところへ、石油をたっぷりかけられたで、傷がしみて太郎は喚いた。父親は𠮟咤激励しながら、さらに、今度は血止めじゃ、と「みのり」とか「なでしこ」とかいう刻み煙草をまぶして、傷口をぼろぎれで巻いたものである。家庭の事情で、でき得ればこのまま傷が治って欲しかった。

 ここで少し時間を頂いて昭和一桁時代の首里地方の医療の情況を書きたいと思う。当時首里の町には、平田、平良、比屋根、首里、富原、照屋、柏と七つの医院があって、首里医院が外科、柏医院が眼科、富原、比屋根、照屋は内科、平田、平良は外科も兼ねていた。大きな総合病院は一つもなかった。入院を必要とする重い病気は、すべて那覇市内の大きい病院のお世話になったものである。

 それでも那覇の病院に入院治療できる人は、比較的経済に恵まれた階級であった。首里の町の医者にかかるとき、治療費は現金で支払うのが原則のようだった。が、お得意というか親しいというか、馴染みの客は後払いだった。私の家では、年二回盆と暮れに半年分宛まとめて届けていた。

 盆暮れが迫ると、薬局と称する調剤係が半年分をトータルして金額を書いた紙切れを封筒にも入れず、裸のまま直接届けてくるのだった。その場で支払いせず、母が日を改めてお金を届けていた。今考えてみると、まことに原始的だけれども、お金を届ける前後には、豚の片足とか、肋骨皮付きの半身とかを、お中元お歳暮のように届けていたようである。だから医者の支払いは、母がまとめて支払うものと思っていた。表で怪我しても、家に帰らず、真っすぐ医院へ行ったものである。次に紹介する話で、当時の庶民の医療の事情がよく理解できると思う。

 お忘れになったかも知れないけれども、冒頭にご紹介した幼友達の豊見山五郎の遠い親戚に、同じく豊見山という家があった。家計が貧しいらしく、かみさんがよく質入れに来た。主人は定職を持っていなかった。当時隣り近所には、定職を持っていない人が多かったように思う。そのかみさんが母に語った、貧乏残酷物語の一節はこうである。

 小さい子供の様子が、いつもの風邪と違って呼吸が苦しそうなので、医者に診てもらったところ、ジフテリアだという見立てだったので、たいへんショックを受けた。ジフテリアという病気は、現在では予防接種の普及で減少、滅多に耳にすることもないけれども、当時は子供にとっては、命取りの怖い病気だった。ジフテリア菌に感染すると、高熱を発して咽頭や喉頭に白い偽膜ができて呼吸困難となり、さらに心筋や末梢神経まで冒されて死に至る、ということになる。急性で、極めて始末の悪い法定伝染病である。

 医者から病気の説明を受けた豊見山のかみさんは、それこそたいへんなショックを受けたが、「ジフテリア血清というのがあって、これを注射すれば、確実に一命を取り留め病気が快癒する」と聞かされて、ああこの子は助かる、と安堵した。

 早速その注射を頼むと、医者にこの注射は現金をいただきます、と言われて不安になった。懐には、風邪薬を支払うほどのお金しかなかった。注射の値段を聞くと、この薬は二円五十銭という高価なので、現金で支払って欲しい、と再度言われた。明日必ずお金を届けるから、と懇願したけれども、ついに願いがかなえられずに、苦しい息づかいをしている高熱の子供を抱いて、胸のつぶれる思いで泣きながら家へ帰った。それからどんな金策をしたかは聞かなかったが、三日ほどしてその子供は死んだというから、きっと金策ができなかったと思う。二円五十銭あれば子供の命が助かるものを、金策ができず、見す見す子供を死に追いやったという、今では考えられない大正末期の悲しい貧乏物語である。

 二円五十銭が、現在の金に換算していくらになるか、正確な答えを出すのはむずかしい。しかし、当時男の日傭取りの、一日の手当が五十銭だった。低く見積もって、一日の日当五千円の五日分で現在の二万五千円程度ではなかろうか。現在でも保険なしの二万五千円の注射代は高い。貧乏時代の当時としては大金だったかも知れぬ。それにしても金策がつかなかったとは、どう理解すればよいか。今ここでは深く触れない。庶民にとって、医療ということが如何に負担だったか、現在の医療生活との比較考慮の助けとなればと思う。

 話を国吉太郎に戻して、傷がひどいので、これはこんな家庭療法ではとても駄目、と判断した太郎の父君は意を決して、外科専門の首里医院に駆け込んだ。刻み煙草が一杯附着し、石油の臭いの芬々する傷口を見た医者は、こんなに傷口を汚しては治療に困る、と言って父親を怒った。刻み煙草を傷口から取りのぞいて、きれいにするのに時間がかかった。その間太郎は痛い痛いと泣き続けた。可哀そうに二度の災難である。

 とにかく治療を終えて帰宅したものの、その日は傷の痛みで、夜中もちょくちょく目が覚めて、よく眠れなかった。学校も五日ほど休んだようである。幾日か経って傷口は治ったが、右手の中指は変形して、曲がらなくなってしまった。裕と遊ぶと指どころか手も無くなってしまうぞ、と太郎を怒った父親の予言は、皮肉にも当たらずとも遠からず、と言ったところか。石が頭に当たっておれば致命傷になっていたかも知れない。中指が曲がらなくなっただけですんだのは、不幸中の幸いだった、と言うべきであろうか。

 余談の余談だけれども、太郎の親父は、民間療法好きのようだった。太郎の指の件があって、その一年か二年後のことである。もう私は中学一年生になっていたと記憶する。丁度夏の季節だった。隣り儀保町に西森という丘陵地帯があった。馬の背のようになった天辺に石で囲まれたうたきがあって、その前が広場になっていた。そこは三月のお雛様の時、近場の小母さん達が集って、忠臣蔵で大石良雄が持っているあの陣太鼓を小さくしたような鼓を打ち鳴らしながら、輪を作って歌ったり踊ったりしていた。

 その広場は私達子供にとっても、明るい日中は格好の遊び場所だった。しかし日が暮れると恐い場所で、日暮れ前には早々と引き揚げたものである。そのうたきの広場を引き揚げて、西森の裾の道路へ出たら、子供達が集って綱引きをしているところだった。綱引きの綱は、那覇大綱引きの綱と体裁様式は似ているが、肝心な綱の材料は、牛馬の飼料にする芝の長く伸びたような雑草の葉やら何やらを藁縄と交ぜ合わせてった子供達手造りの物で、双方の世話焼きは少学六年生ぐらいの子だった。

 この辺の家庭は一般に貧しく、当時の義務教育の尋常科(小学六年)を終えると、大方が大工とか店の小僧とかの奉公に出されたものである。小学校の高学科(二年)に進む者は少なかった。中学校はなおさらである。専門学校大学に進む者は、極限られていた。

 私が生まれ育った桃原村を例に挙げると、世帯数約百戸ほどで、明治以来昭和十六年までに、専門学校大学を出た人はおよそ六名で、大学卒はたったの二名であった。その二名は、尚順男爵の長男謙(慶応大学)次男誠(京都大学)の両氏である。

 話が横道にそれたが、子供達が綱引き遊びで騒いでいるところへ例の太郎の親爺が、半袖半ズボン地下足袋姿で通りかかった。その出で立ちから、多分日傭取り仕事の帰りだったと思う。ふと足を止めて子供達の騒ぎを眺めていたが、やがておいおいその子もっと踏ん張ってとか、テーンナ(手綱、本綱から左右に出た小綱)がないと小さい子には力一杯引けないねとか、知恵をつけたり応援したりと段々と熱が入ってきた。子供の遊びだから、負けたり勝ったりと綱引き勝負が何回となく繰り返された。

 そのうち私は太郎の親父の(足のはぎ)に、何か得体の知れぬ物がついているのに気づいた。近寄ってよく見ると、柔らかに揉んだの葉っぱを、赤くれあがった根太に張り付けてあった。ははあ、お得意の民間療法だな、と太郎が指に怪我した時のことを思い浮かべた。その時つと横から大きな雄の家鴨が出てきて、親爺の根田をつついた。思わざる時不意を衝かれた親爺は、普段の豪気にも似ず、うわあーと叫び声をあげ踊るような恰好で道路に尻餅をついた。一瞬の出来事だったが、動きがあって漫画より面白かった。後日太郎の話すことには、家鴨につつかれ親爺さんの根太は、お蔭ですっかり膿が摘出されて、間もなく完治した、ということだった。これも民間療法の“間接的効用”というものだろうか。

 余談のまた余談になるけれども、私の子供のころの沖縄では、夏になると頭におできができたり、脂肪の多い臀部とか大腿に根太ができたりする子供が多かった。その原因は深く考えたことはないけれども、単に暑さのためでなくて、生活環境、例えば現在のように各家庭に風呂の設備がなく、毎日体を清潔に保つことが無理だったとか、あるいは食生活の貧困で栄養が悪かったりだったかと思う。加えて医療の面でも、今のような保健制度はないし、金はないしで、多くの庶民は何かというと直ぐ病院に駆けつけるというわけにもいかなかった。もちろん現在のように、救急車があろうはずもない。熱だおできだというときに、直ぐ薬局で薬が買えた庶民は、未だ恵まれたほうであった。金の無い階級に限られたわけではないが、民間薬というか、民間伝承の治療法に頼ったものである。あまり効き目もない民間薬や、加持祈祷に頼りすぎて、適切な医療の時機を失い、見す見す命を失うという悲劇も、多く目にしたものである。そのことについては、改めて書きたいと思う。
 豊見山五郎の話がついつい逸れて、あちこちに飛び火してしまったが、五郎の話に戻す前に国吉太郎の母の死について書いておきたい。さきに書いたように、太郎の家庭は決して裕福ではなかった。女一人男三名の四人姉弟で、皆当時の尋常小学校の尋常科(六年)だけを出ていた。父は人力車を引いたり日傭取りに出たり、時たま太郎の母親の紙漉き作業の下準備をしたりというような生活だった。家は茅葺き屋根の家で部屋は一間、別に土で造られた竈が二つ並んだお勝手らしい土間があった。その外に別棟で紙漉小屋があった。彼の母親は、いつ会っても渋い顔をしていた。笑顔を見たことがなかった。私の母は、太郎のお母さんはいつ会っても機嫌が悪いようだね、と言っていた。色が黒かったので、なおのことそう見えたかもしれない。さて、そのお母さんが、肺炎で床に就いた。よそ様のことだからどのような治療をされたかよく分からないが、病院などへ入院治療していなかったのは間違いない。太郎からお母さんの病気の話を耳にしてから、幾日も経たぬうちにお葬式があった。私は子供だからお葬式に行かなかったが、母が参列した。それから間もなく太郎に会った。

 おい裕、うちの母さんは、自分が死ぬことをちゃんと知っていたんだね

 どうして

 死ぬ前の日に弟の松を呼んで、苦しい息の下から、松よ、明日家から唐船が出るんだよ、と言って眠ってしまったんだ

 松は未だ小学校の三年生ぐらいだったので、唐船の意味を理解できなかったらしい。太郎は意味がちゃんと分かっていたので、ショックだったようだ。自分の死を予感した太郎の母さんは、これまでの生活苦から解放される安堵感とも言うべき悟りの心境、また、愛する肉親との愛別離苦、幼き者を残して逝かねばならぬ深い悲しみ、と複雑な思いをこめて語りかけたのではなかろうか。今にして思う、死以外に貧困の苦しみより解放される術のなかった、近代社会の底辺で長年生活苦に喘ぎ続けた者の、最後にり着いた悟りの心境だったのではなかろうか。豊かな現在の生活からは想像もできぬ、なんとも悲しい物語である。

 しかし一言付け加えたい。私の家は当時ささやかな質屋を営んでいた。近所だけでなく遠くの方からも、僅かの金のために足を運ぶ主婦が多かった。隣り近所の家庭の暮らし向きは、手に取るようによく分かっていた。田舎の質屋は、ただ金を借りるだけでなく、ついでに世間話をしたりお茶を飲んだりで、座して近所の情報が集まったものである。それで太郎の家庭の苦しい暮らし向きは、よく分かっていた。

 が、太郎の母さんは一度も姿を見せたことはなかった。弱音を吐かず長年頑張り続けた末の悟りの心境だったのでは、と推し量られる。
(二)豊見山五郎ちびる

 五郎の話をなんの脈絡もなく書いているうちに、成り行きでつい国吉太郎の話に移ってしまったが、五郎のことに戻す。

 五郎は父君が年をとってからの子供で、とても甘えん坊だった。俗に言う‶甘えん坊の末っ子〟の堺を通り越していたように思う。仲良く遊んでいても、何か気に入らぬことがあると、直ぐターリーに言いつけるとか、アヤーに言いつけるとか言って、遊び仲間に圧力をかけてリードする癖があった。さらに、親戚に本部サールーという大拳豪がいる、ということを吹聴することも忘れなかった。常々このことに、餓鬼大将どもはカチンときていた。五郎の直ぐ上に二人の姉がいたので、彼も口が達者になったのだろう。

 五郎の家の近くに、桃原毛という広場があった。子供の遊び場所で、ここでは時々大人の集まりもあった。村芝居の稽古もここでやっていた。ある時二、三人の年上の仲間と遊んでいると、そこへ五郎が新しい服を着て、口には出さないが、どうだと得意気にやって来た。皆洋服を着たことのない連中だから、一斉に羨望の目を向けた。五郎の洋服は、霜降り模様の布地でできた、詰襟の半ズボンだった。そこで五郎は、この服はねぇ、今日ターリーが買ってくれたんだよ、と口上書を述べた。孫のように小さい五郎は、高齢の父親からすれば、可愛くて目に入れても痛くない存在だったに違いない。何かと優遇されていたようだ。そのことが、幼い私達の心にも伝わってくるようだった。

 さて五郎は、口上書の後で、このズボンは脱がなくても、前のボタンを外すだけでおしっこができるよ、とズボンの効用を説明した。すると、それまで黙って能書きを聴いていた餓鬼大将どもが、おい五郎、話しただけではよく分からないよ、ちょっとおしっこしてみな、とおしっこの実演を求めた。彼はなんのためらいもなく、皆の前でズボンのボタンを外して、男のシンボルを取り出し、早速おしっこを始めた。五郎は得意気だったが、皆は別に感心するでもなく喜ぶでもなし、ただアッハッハーと笑っただけだった。五郎は少し失望した様子だった。

 すると餓鬼大将の一人が、

 おい裕、金城太郎を呼んでこい

 と言った。金城太郎は私よりも一つ年上で、家は桃原毛の直ぐ側だった。父君は当時、辯護士で代議士だった崎山嗣朝のお抱え車夫だったと思う。呼びに行ったら、幸い太郎は在宅だった。

 加那チーが呼んでいるよ

 と声を掛けたら、いつものように直ぐ付いて来た。加那チーが、

おい、太郎、面白いのを見せてやる、これ五郎、さっきのおしっこの実演だ

 と、太郎と五郎の両方に声を掛けた。太郎はなんのことかよく分からないので、黙って五郎の方に向いた。お祭りでもないのに新しい洋服を着ている五郎の姿に、その場の状況が読めぬ、という顔で立ちん坊の太郎へ、加那チーが、

 太郎、このねぼ助、なにをぼんやりしているんだ、今にいいもの見せてやる

 なにもぼんやり立っているわけではない。めったなことを言うと直ぐ殴られるから、用心深く様子を探っているのに過ぎない。

 五郎、早くさっきの続きをやれ

 と改めて加那チーの声が飛ぶ。五郎は、満更でもないという顔つきで、ズボンのボタンを外して、ラッキョー形の一物をいとも簡単に取り出した。一物が容易に出てきたのは、きっとパンツを穿いていなかったのだろう。一物が顔を出したところで、

 おい五郎、ホースをちゃんと太郎のほうに向けよ

 ホースがちゃんと太郎のほうに向いたところで、
 
 よおーし始め

 五郎は、腹に力を入れて息んだ。しかし、結果は皆の期待を裏切り、目から涙がれ落ちるように、五、六滴ちょろっと申し訳のように出ただけだった。五郎は、ちょっと怯えたような顔になったが、加那チーは別に怒ることもなく、次の指令を発した。

 太郎、隣りの玉城の蒲戸を呼んでこいよ、

 ちょっと、このまで、となぁ

 太郎は、飛んで行った。間もなく痩せて青白い顔をした蒲戸を伴って、太郎は戻ってきた。蒲戸はやってくると、直ぐゴホンと咳をした。

 これから五郎が、面白い芸をやるから、蒲戸よ、よく見てくれ、五郎早速始めよう、それ、さっきの続きだ

 と再度おしっこの実演を迫った。五郎は、悪びれることもなく、例の手順で一物を公開、今度は自主的に息んだ。彼の積極的な努力も空しく、今度もまたちょろちょろだった。情ない顔をして、一物を納めようとした五郎へ、待て待てもう一度だ、と加那チーの厳しい指令の声が飛ぶ。体勢を立ち直した五郎へ、
 
 はいもう一度気張って

 と声を掛ける。五郎は、掛け声にしたがって、今度はううんと唸って息んだ。しかし、例の物が一滴も出てこない。すると、

 五郎、もう一度気張って、それ

 と声が掛った。五郎は、顔を真っ赤にして息んだ。五郎も真剣である。途端にブスッと鈍い音がした。五郎は一物を納めるのも忘れて、大声で泣き出した。おしっこが種切れになって、後ろの方から予期しなかった本物が飛び出したのである。ビックリした五郎は出した小物をズボンに包んだまま、泣きながら蟹股で歩いて帰った。

 彼の姿が見えなくなると、それまでえていた笑いを一度に爆発させるように、加那チー始め餓鬼大将どもは、やったーとワッハッハーワッハッハーと大声で笑い転けた。被害者の五郎と年の近い幼友達の私と太郎は、なぜか一緒になって笑えなかった。一緒になって笑うどころか、何か言葉で表現できない驚怖みたいなものを感じた。太郎と二人黙って、その場を引き揚げた。

 五郎は、見事に、餓鬼大将どもの悪計にひっかかったのである。彼等は、家が貧乏だった。したがって毎日の食べる物、着る物すべてについて、耐乏生活を強いられていた。食べたい物が食べられない、着たい物も着ることができない、買いたい物も買えない。いつも自分の欲望を抑制しなくてはならぬ。今様で言えばストレスがたまるけれども、家にラジオがあるわけでもなし、漫画もなければ子供向けの雑誌もない、さりとて周囲に娯楽の設備もない、というないない尽くしの生活環境だった。

 今から考えてみると、子供の人権とかを論ずる以前の、子供が疎外された不幸な時代だった。だから、子供のストレスは、解消の手だてがなかった。それで、豊かな者に対しては、羨望するというよりもみの心を持つ。要すれば、意地悪をして留飲を下げる、ということだった。自分達より強い者に向かって、つまり大人泣かせの悪餓鬼なら、その勇気に多少の理解と共感も起きようが、全くの弱い者泣かせでは、近所の親達の鼻摘まみにしかならない。

 しかし、現在のいじめと違って、決して陰湿なところはなかった。それは生活環境が自然に恵まれていたからだ。大きい子供達は夏は近くの川へ行って川遊びができたし、冬は冬で竹トンボや鳥籠を作ったりで、自然を利用した遊びを、自分達なりに工夫して楽しんだものである。ただ、その材料が自分の家の所有物でなく、黙って人様の竹藪から失敬したものが多かった。しかし、今から考えると不思議だが、泥棒という意識は、それほど強くなかった。

 さて、五郎の一件があってから、もう記憶も薄れたが、それまで毎日のように遊んでいた仲だったが、あまり交渉がなかったような気がする。そのうち、五郎が病気で休んでいる、という噂を耳にした。忘れるともなく五郎のことを忘れていると、或る日五郎が亡くなったという夢を見た。朝、母に五郎は亡くなったのではないかね、と話したら、母はそんなことはないよ、と気にも留めぬ様子だった。朝食を終わって学校へ出掛けようとしたら、五郎が亡くなったという触れがきた。正夢に私も母もびっくりしたものである。そのときは、こちらも子供だったから、なんの病気で亡くなったか、死因を尋ねる知恵もなかった。ただ漠然と、病気で亡くなった、と受け止めただけだった。中学生になってから、母に聴いたのでは、小児結核だったとのことだった。 

 余談だけれども、僕が桃原町に生まれ育ったのは、二十までである。記憶に残るお葬式が約三十七ほどあった。その中で結核で死亡した子供は七名で、大人は六名だったと思う。食生活もあまり豊かでない上に、衛生思想も普及発達していなかった昭和一桁時代は、現在忘れかけている肺結核の罹患者が多く死亡率も高かった。

 さて、五郎の家庭の話を進めたい。五郎が亡くなったのが先か、ターリーが亡くなったのが先か、記憶が定かでないけれども、父子共に続いて亡くなったのは事実である。

 父君の死の様子は、近所の小母さん方の井戸端会議で耳にしたので、よく覚えている。改った用があって、羽織袴の正装に身を正して、部屋から廊下に出たとたん、ばったり倒れてしまった。予期せぬ事態にびっくり仰天したアヤーは、すっかり取り乱してただ上ずった声で、ターリーさい(お父さんよ)、ターリーさいと、倒れたターリーの体を激しく揺すりながら大声をあげるばかりだった。

 が、五郎の姉達は冷静だった。誰か医者を呼んできて、宮城の小母さん直ぐきて、と大声で叫びながら裸足で走り出して、隣り近所に救いを求めた。姉妹の声で駆けつけてくれたのが向かいの宮城の小母さんだった。小母さんも裸足だった。小母さんは直ちにをターリーの(鼻と上唇の間にあるみぞで急所といわれている)に据えてお灸をした。続けざまに二回、三回と大きめのお灸を据えたが、ターリーは全く反応を示さなかった。そのうち医者も人力車で駆けつけたが、目を見ただけで、死を宣告して引き揚げた、ということだった。

 小母さん達の話は、医者というものは全く冷たいもんだ、折角往診してくれたのだから、脈を取ったり聴診器を当てたりしてもよさそうなもんだけど、などと洗濯しながらの井戸端会議は、いろいろな話題が登場していつ盡きるともなく延々と続くのであった。

 五郎君の父親が急逝して、豊見山家は急速に家庭経済が逼迫するようになる。よほどお金に困ったとみえて、五郎のお母さんが安均さんの遺品の三味線で金を借りに来た。沖縄の三味線は、名器は大抵二丁で一対になっている。僕の聞き違いかもしれない。とにかく一丁を持ち込んで、拾円を借りていった。二、三ヶ月経つと、また一丁を持ち込んできた。今度のは姿形は前の物と同じだったが、胴の張り革に穴が空いていて、張り替えなければ使い物にならない代物だった。まともな品物が拾円で、使い物にならぬ物が半額の五円という訳でもなかったろうに、とにかく五円で話がまとまったようだった。

 金の貸し借りが終わって、今度はお茶ということになった。その時、話がたまたま亡夫ターリーの臨終の光景に及んだ。出掛け際正装のまま廊下で倒れたターリーに、年がいもなくただおろおろしているところへ飛んで来た宮城の小母さんが、気付けにはこれが一等だ、と言って台所のからを皿に載せて運び、その一つを火箸でつまんでターリーの心中に乗せた。が、予期に反して、ターリーはぴくりともしなかった。今なら差し詰め次の手は、心臓マッサージといったところだろうが。否、先に心臓マッサージを施したかも知れない。しかし、昭和初期にはそういう言葉さえ耳にすることはなかった。心臓マッサージなんて思いもよらぬことである。

 話を前に戻して、急を聞いて集まってきた隣り近所の小母さん小父さん達が、医者は呼びに行ったか、誰が行った、と騒いでいるところへ、宮原さん(宮原守?医師)が、人力車に乗って、隣りの小父さんの先導で勢いよく到着した。その時ターリーは、すでに座敷にえた布団に移されていた。宮原医師は、ターリーの枕許にゆっくり座ると直ぐ瞼を開いて瞳孔を見た。宮原医師は、アヤーに向き直って、

 ターリーは、もう私の手から離れてしまいました

と婉曲な言い回しで、しかも厳粛に死の宣告をした。宮原医師は、死因は脳溢血である、と説明したようである。

 ずっと前に、井戸端会議で聴いた隣り近所の小母さん達の話の内容と、ターリーの死に直接立ち会ったアヤーの話との違いに、人の噂話というものは、どうも当てにならぬものだ、とはっきりとは意識しないけれども、怪しげなものだと印象づけられたことは間違いない。

 このことが後年なんでも自分で確かめなければ納得信用しない、という生き方につながったかも分からない。人の話や書いたものすべて信用しないというわけではないが、常に問題意識をもって物を見る、という目が養われる遠因になったように思う。常に問題意識をもって物を見るという姿勢は、自分の空手人生に大いにプラスになった。

 誇張して言えば、空手誕生の歴史を解明し、その技の論理的構成を系統立てることができたと自負している。このことは、空手集成として上下二巻の大冊に纏めるべく稿を書き進めているので、ここでは割愛させていただくことにする。

 感受性豊かな少年期に、たまたま或る出来事から受けた印象が、その人の生涯の基調を形成する要因となることがある。世界の共通語とする目的で、エスペラントという人工語を創案した、帝政ロシア時代のポーランドの眼科医ザメンホフ(一八五七~一九一七)の伝記を持ち出すまでもなく、その例証は多い。

 いろいろな伝記をご紹介したいけれども、まずは豊見山家の話を先へ進めたい。と言うのは、豊見山五郎との交遊とその死、豊見山安均氏の死亡によって、その家族が崩壊してゆく姿から、いろいろな感銘を受けた。そのことによって、私の生涯の基調に大きな影響を与えられた、と深く思いを致すからである。

 私が生まれ育った桃原村は、旧首里市(現在は那覇市)で一番人口の少ない小さな町だったと思う。所帯数およそ百軒、人口はせいぜい三百人足らずだったのでは、と記憶する。しかし、村芝居とかいう郷土芸能については、首里の十七の町でも異色だったのではないかと思う。もっとも、真和志の町には獅子舞、赤田の町には弥勒菩薩お迎えの行事などがあった。取り分け異色の芸能というのは、村の行事としての芝居などでの踊りや劇、特に古典劇などは本格的であった。浦添家の広間で、定期的に三味線、古典舞踊や劇の温習会があった。温習会参加のメンバーの名前顔は覚えていないが、確か当時古典音楽の大家といわれた金武良金さんは常連だったような気がする。

 大広間で催される温習会は、誰でも自由に見学できたので、村の人達は庭のほうから勝手に見学したものである。私もその見学者の一人だったが、まだ小学校の下級生だったので、特に宮廷舞踊の地唄の悠長なリズムと踊手の遅いテンポには、あきあきしたものである。が、組踊の科白などは、今でも断片的に覚えている。
 浦添家の一角に孔子廟があった。浦添家の先代が熱烈な孔子崇拝者、論語信奉者と言ってよいか、

こちらで原稿は終わっています。
この原稿は、金城裕の三女の金城真弓が遺構から書き起こしました。

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