父の遺産 永遠に心に刻まれた思い出(長女 久美子)

父の帰天(幼少期に洗礼を受けた)から十年以上が経ちましたが、折に触れて父のことが思い出されます。若い頃の父とのことなども。

私が幼稚園の頃、父がテレビに出ると言って母に連れられてお蕎麦屋さんへ行きました。突き当りの壁の少し高めに置かれたテレビの画面いっぱいに父の顔が映っていたのは記憶しているのですが、そこでお蕎麦を食べた記憶がまったくないのはテレビという三種の神器から受けた衝撃がより大きかったからか?それとも当時の経済状況を考えると見せてもらっただけだったからなのか?この番組が一体何だったのか、父が何を話していたのかなぜ聞かなかったのかが悔やまれます。当然ながら空手関係のことに違いないのですが。

この頃は四ツ木の一軒が壁で二つに仕切られた二間の家に親子四人(末の妹はまだ生れていない)で住んでいました。空手をお金儲けのためには使わないという主義故に父に収入はほとんど無かったので母がその頃人気のあったビニール製のレインコートのボタン付けなどを内職でして家計を助けていました。洋裁が得意なこともあり腕が良く枚数をこなすので重宝されたようです。母が仕上げたものを父が自転車で発注元に届けていました。

母の収入だけで生活出来たのはアメリカに住む父の父、つまり私の祖父からの送金があったからです。祖父は一度帰国したものの産まれたばかりの父と妻を沖縄に残し、父の姉と兄を連れ再度渡米しましたが、母子二人だけの心許ない生活を強いた責任感からか亡くなるまで送金を続け、その後の送金は父の兄、清伯父に引き継がれました。そのおかげで私とすぐ下の妹は大学に行くことが出来ました。

父は厳格な一方、冗談を本気で言うので私はよく被害にあいました。人間は昔類人猿だったと耳にして「昔人間はサルだったの?」と尋ねると、母に「ひいおじいさんが檻に入っている写真があっただろう? それを持ってきなさい」と。この時の私の驚愕した様子がよっぽど可笑しかったらしく何度かこの話を聞かされました。小学校低学年の時は先生に泳ぎ方の種類を聞かれて多分私は得意げに「馬泳ぎがあります」と答えて大恥をかきました。面白い話もよくしてくれました。毛生え薬を塗っていたら手に毛が生えてきたという話は特に好きな話の一つです。

これは私が大人になってから聞かされた話ですが、子供の頃はかなりのやんちゃで近所に母親が謝ることも多かったそうで、中学生の頃は「お前のような馬鹿を手でたたくと痛いから」と言って竹の棒で叩かれたとか、怒って投げた湯吞が物に当たって割れたので手をたたいたら更に激昂したなど。教師の経験もある母親は厳しかったそうです。

昭和三十一年(1956年)に押上駅近くの家に引っ越しましたが、ここは庭を挟んで母屋と工場がある広い家でした。この工場を経営していた方が病に倒れ工場を売りに出したのを父がアメリカからの送金で購入。この工場を空手道場に改築して「養生館」を開きました。天井が異常に高く、梁にお弟子さんの空手着がずらっと下げてありましたが、今思うとこれは置き空手着?手ぶらで稽古にという工夫上手な父のアイデアかもと思います。

話がだいぶ先になりますが末の妹が幼稚園児の頃、上履きの上に足の指の形を書いて左右間違えないようにしたのは良い思いつきだったと思いますが、妹はどんな気持ちだったのでしょうか。この妹が大人になって一人暮らしのアパートを出る際処分した家具の中で父の作った本箱が一番高く売れたそうです。

家具と言えば引き出し付きの本箱を作ってしまうほど手先が器用でした。最も大きな作品は平塚にある実家の庭と道路を隔てる石垣で、これは家の新築後に時間をかけて完成させたもので、現在も堅牢に敷地を守っています。

さて、押上時代の話に戻りますが、その後三、四年の間に母屋を道場まで牽引して出来た空き地が人手に渡り、家と道場も失うという一連の流れになったのは信じられないことですが、実印を他人に預けた結果でした。

下の二人の妹達に対しても同様に年齢に応じてグリム童話集、伝記などの児童書を豊富に買い与えてくれました。稽古の傍ら『月刊空手道』の編集に忙しかったにも関わらず、木下サーカス、ボリショイサーカスなどに連れて行ってもらったのは楽しい思い出です。琉球舞踊の公演はあの頃の私には少し退屈でした。『月刊空手道』について一言付け加えますと、購読料後払いとした為に続けるのは難しくなりました。

私だけが連れ出してもらえたのは、すぐ下の妹は喘息で入院することが多く、末の妹は生まれたばかりで母は多忙極まる中私に寂しい思いをさせまいという気持ちからだったと思います。今思うと見たパフォーマンスはみな身体の動きに関連していたような気がしますが考え過ぎかも。

ただ父との外出はかなり緊張するもので、多くの人が触れる手すり、吊り革は触ってはダメ。荷物は絶対床におかないなど。今でもバランス感覚が良いのはこのおかげかもしれません。このように潔癖症なので、容器から軟膏を指で取って、更に取る場合は別の指を使うように言われましたが、指の消毒についてはなぜか何も。

この頃から七十代まで父の趣味は写真を撮ることでした。大事にしていたミノルタの二眼レフカメラを五年生の遠足に貸してくれましたが、首から下げるストラップのおかげもありこのがっしりしたカメラは安定感があり使いやすかった気がします。

東京から空気が良いと言われた神奈川県に移ってからは私自身が自分のことで忙しく父と出掛ける機会がなかったのですが、大学生になってからは「ツタンカーメン展」(子どもの頃父がよく、シューリマンの話をしてくれたのでエジプト文明に興味があった)や、「上村松園展」(父は油絵より日本画が好きだった)などに連れていってもらいました。

父親や兄姉がアメリカにいるということは自身の勉学にも影響していたと思います。学生時代に愛用していたNew Handbook of Englishの12版を買ってもらいましたが、裏表紙の内側に大きく力強く筆で記された贈 久美子 父 裕 が嬉しくて本を買ってもらうたびに書いてくれるよう頼みました。また今だに記憶に残っているのはeducateの語源、universityと collegeの違いなどいろいろ教えてもらいました。知識ではないのですが、物事を考える際に重要なのはmind’s eyeとよく口にしていました。

父の祖父が琉球王国最後の王、尚泰のコックであったという誇りから料理上手であった面にも触れたいと思います。私は包丁の使い方から沖縄料理の作り方まで父に習いました。私にとっておふくろの味は父の味で、こう言うと母をないがしろにしているようですが、特に料理に関してはうるさかった父に早い段階で譲ったのではと思います。

ただ養生館時代に両親が三月菓子を作っていたのを覚えています。成形してから揚げるのですが、タネが似ているサーターアンダギーの作り方は父に習いました。綺麗に割れ目が出来るようにあげるには少しコツがある気がします。タネを二つのスプーンで少し形づけながら油に落とす方法も父のアイデアではないかと思っています。

そう言えば父は王様のアイデア(当時東京の、場所は定かではないのですが、アイデア商品をショウウィンドウに展示している所がありました)を覗くのが好きでした。厳格な父なのに作る物や話が笑えて楽しい家族だったと思います。

話はそれてしまいましたがアンダギーのルーツは中国の開口笑と言っていました。

人参しりしりは一度も教わったことがないので、父が人参嫌いだったせいと考えていましたが、父が沖縄に住んでいた頃には無かった調理法のようです。沖縄料理はよく豚肉を調理しますが、その際豚肉の臭いで雄か雌のものか分かると言っていたのは本当ですかお父さん?疑問です。

そして特に聞かずじまいで残念に思うことは、なぜ空手を娘たちに教えようとしなかったかということです。まだまだ聞いておくべきだったことや教えてほしかったことがたくさんあります。

父が最晩年自分の事で精一杯になったと口にした時のことを思い出すと、それまでいかに自分が父を頼りにしてきたか、そして常に父が真摯に向き合ってくれていたことかと胸が締め付けられるような気持ちです。

父の生き方が理解出来ず批判した時期もあった私と、私よりもずっと理解していた妹たちに多くの愛情を注いでくれた父へ感謝と愛を捧げます。

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