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Kinjo Hiroshi
空手家
KARATEKA
昭和51年7月25日、岡山市、金城裕先生のお話の要旨
(文責 森重勝也)
糸州先生の体育空手をやっている者は、ナイファンチ初段は空手の型の基本であると言われているが、なぜ基本でなければならないのかということについてはあまり触れられていない。そこで、最低これだけは心得なければ、ナイファンチ初段は絶対にできない、同時に他の型もナイファンチの稽古によって良くなっていくという効果もないということで、思いつくままに「ナイファンチ初段練習の心得」(点線内の文)を書いた。まだまだ書きたいことは多くあるが、とりあえず必要最小限に留めた。わかりやすいように、精神面と技術面に分けて考えてみる。
1、精神面
たゆまぬ練習の積み重ねによって、防御・攻撃ともに必要最小限の動作で、十分効果的な対応のできる技を完成するための基礎作りである、ということを忘れてはならぬ。
空手はあくまで地味であると思う。世間一般には、型と実際は別であるといわれているが、別ではない。型をいかに練習するかということによって、型と実際はひとつに結ばれている。その練習の方法がまずい、間違っていると考えられる。初めから型と組手(実際)は別であると考えると、もはや型は型としての価値はなくなる。必要性はなくなってくる。
少なくとも21世紀になると、技を表に作って分類し、組み立てたり分解したりしていくと、空手の基本的な技は何であるかということが数字的に出てくるので、これを型とは別に独立して稽古すれば、もはや型は必要でない時代が来るかもしれない。しかし、少なくとも現在の段階では、型を、型の中の技を十分にマスターし活用できるまでに高める、そして、十分マスターした後で、いま述べたような技を分解・分類して、基礎的な技を独立させるということなら可能であるが、未熟なうちに勝手な分類をすると、似て非なるものになると思う。技の前進ではなくて後退になる。従って私は「型が空手の原点である」という信念をもっている。これを深く追究して、空手の技・精神を把握していこうというわけである。
まず、何事によらず「たゆまぬ練習」ということは必要だと思う。思いつきではいけない。どういう方向で「たゆまぬ練習」をするかという方向づけが大切である。「たゆまぬ練習」と書いたのは、ナイファンチの技が非常に小さいので、特に大切だからである。団体によっては非常に技が大きく、人にアピールするように、演武の効果があるようにやっているが、元来、空手の型・技は地味で小さいのである。全空連の指導者講習テキストの草案は、技術に関しては私が全部起草したもので、その中に「技の心得」が出ているので紹介する。
全空連の指導制度が確立されたこの機会に、伝統的な型を原点に踏まえて経験による合理性、すなわち、最小の運動最で最大の効果を収めるという基本原則に基づいて、初歩的な基本技の指導要領をまとめた。しかしながら、経験による合理性よりさらに科学的合理性を志向するという意味で、その表現についてなるべく計量的に示すように努めた。
1、技の心得
1)技の目的を正しく理解し、無駄な運動(意味のない動作)をしてはならない。
2)運動は、現在の位置から始動する。
3)運動の軌跡は、原則として二点間の最短通路である直線を選ぶ。
4)瞬間的に全身の力を一点に集約する。
5)運動を起こす前から力を入れてはならない。
私が起草したものには、次の6)、7)の項目があるので付け加えたい。
6)大きな動作と小さな動作は、次元の異なる技であることを理解しなくてはならない。
7)基本の心構え・姿勢としてわきを締めることは、柔道・角カ・ボクシングなどに共通した要点である。
(註)伝統とは、明治41年(1908年)近代空手道の集大成以降のものであり、近代空手道以前の伝統は原伝統として区別する。
ここで言っている伝統とは、古い伝統ではなくて近代空手道の伝統ということを指している。この「技の心得」を踏まえてナイファンチ初段をやりましょう。
以上が基本となって、次に技術面に入ります。
2、技術面
イ)手技だけで十分に対応できる、ということを理想とする。ナイファンチ初段・平安・パッサイ・公相君と進むにつれて、体さばき・足さばきの伴う技へと展開していく。
ある団体では、中段外受けを大きな動作でやっているが、もともとは小さな運動である。相手が急に攻繋してきたのを、大きく腕をあげてから落とすのでは間に合わない場合がある。高度な技術になると、受け技と体さばき・足さばきの三つが一つになって、もっとも理想となる。その体さばき・足さばきができない場合には、手だけの運動でも十分対応できることを理想として稽古しよう。だからこの受けは自分の体の占める空間範囲しかなく、それ以上の必要はない。それ以上ではわきが開いてしまうので、体の範囲だけの運動で用をすませる。とりあえずこの練習をやろう。次にピンアンでは半身になり、パッサイでも突いたら半身になる体さばきの練習をする。つまり、外受けは、まず体さばき・足さばきをやらずに、手だけで間に合う練習をやり、次に体さばきになり、その次に受け技・体さばき・足さばきの三つが一緒になった高度な理想的な技に進む。ナイファンチはその基礎であるということである。
ロ)特に受け技の場合、その運動範囲は自分の占める空間面積より外に出ないように気をつける。
これは先に述べたように、受け技は身体の占める空間面積より表に出ないように内で用をすませることであり、それでも間に合うだけの技の切れ味を作りたいわけである。
ハ)限られた運動範囲内で、最高の技の切れ味を出さなくてはならぬ。
この外受けの運動量は限られている。この短い小さい運動の中でも、どんな力が来ても、はじき返すだけの力をつける努力をする必要がある。
ニ)相手を自分の内ぶところに入れぬように心掛けねばならない。(中段外受けから裏拳の反撃に出る連続技の重要性を正しく認識すること。)
相手に内ぶところに踏み込まれてくると、クリンチになったり、組んで投げられたりする不利がある。内に入れないためには体さばきするなど、とにかく内ぶところに入れないようにする。しかし、これはなかなか難しい。自分が内に入った場合は先制攻繋で相手の攻撃を封じる。これが外受け・裏拳の意味であり、応用技として払いから目つぶし・裏拳もある。
ホ)情操教育の見地から体育的に組み替えてある技があるので、その原型・原点·また精神要素まで追究していくことによって、正しく技を身につけることができる。(第3挙動の原型は目つぶしの技であって、この
事実を理解することによって、作者の意図を推測することができ得る)
第3挙動はふつう、受けということになっている。受けて、取って、肘当てという解釈もあるかもしれない。しかし、実際にはなかなか無理なことです。この意味は、対座の場合、相手が来る前にいきなり目つぶしをいき、相手がはっとなるところへ左のパンチをいく、あるいは、目つぶしにもひるまず相手がつつこんでくる、またはつかみかかってくるのに、表から肘当てにいく、というように変化してくる。だから、元は受けて肘当てではなく、目つぶしである。この目つぶしを原型として考えてみると、相手に目つぶしをくわない心構えができてくる。原型・原点まで追究し、作者の意図を理解し、その精神を身につけ、自分にスキのないよう、虚を突かれないように心掛けようと言うことである。
へ)型の中にある個々の技を分解して、二人で組んで練習することができるかどうか。ホ)の項が身につけば可能であり、それを基点として「用」の道へと展開していく。
いわゆる情操教育のために、いろいろ手を加えて改編してあるが、この原点を知ることによって、二人で組んで練習することができる。原点がわからないと、これはおかしいということで投げてしまうことになるので、原点までさかのぼって考えて、二人で組んで練習できるかどうか研究する。大体、空手の型は、二人で組んでできるようになっている。
そして、ホ)で説明したことが身につけば、それは必ずできるであろう。それを基本にして「用」の道へと展開していこうというわけである。
型を理解するのに、「体」と「用」ということがわからないと、型の解釈はできない。
「体」は基本的なもの、「用」は応用面と考えてよい。
例えば、ナイファンチ初段の練習区分は次のようになる。
第1区分・・・40挙動。体として最も基本的なもの。ひとつひとつの技を区切った練習。頭を数えると42挙動になる。
第2区分・・・28挙動。用の手引きとして。第1区分では実際に使いものにはならないので、用の準備として連続させる。
第3区分・・・18挙動。用を主体として。さらに実際的に連続させる。
この分け方には多少の異論もあるだろうが、大筋には異論はないだろう。この分け方の根拠はへ)であり、型の中の個々の技を分解して二人で組んでやってみる。さらに、連続的に用を主体にしてやると、このようになる。これはひとつの目安であり、物の考え方の基礎である。これがピンアンになると、第4区分として、用を主体に体カ・スタミナ作りをやる場合は、左右を1挙動にやる。
主題とはずれるが、少しピンアンで説明してみる。下の表のようになる。ホ)を理解し、へ)に進んで技を分解し、バラバラにして組み立てるという作業をすると、こういう数字になる。例えば、小学生の場合はひとつひとつ区切って第1区分でいこう。また、中学・高校生の場合は連続動作で用へと進んでいく。今日は第1区分でやろう、明日は第2区分でやろう、というようにする。すると、物事が何でも明確になってくる。こういう習慣を身につけることによって空手的な見方が、社会生活や学問などすべてに整理されてくると思う。この表はへ)から割り出して表になったものである
皆さんも研究されると、あるいはこの表の不合理な点がでるかもしれないが、ひとつの物の見方を持ち、こんな表を作って初めて批判が出来るだろう。ぜひ、こういうことも研究の対象にして、次の世代に21世紀の立派な空手を譲り渡すことができるように研究してほしい。
卜) 「ナイファンチ立ち」の効用を実際に理解できているかどうか。
ナイファンチ立ちは、非常に動きがしにくい。だから、立ち方としては不合理ではないかという疑問が出るのだが、決して不合理ではないと思う。我々が物を考える場合、どうしても裸足で滑りのよい道場で、稽古衣になった素足の状況を考えて物事を判断するが、これは誤りである。靴をはいているとき、また石ころ道の上で相手と対決するときのことも考えねばならない。その場合、道場で剣道のように足さばきは紙一重であると説明したと仮定すると(私の道場では、その足さばきを勧めているが)石ころ道で紙一重の足さばきをしたら、生爪をはがしてしまう。だから、少し実状にそぐわない。道場の中の考え方ではなくて、表の不整地も考えに入れて足さばきの研究をする必要があり、足を高くあげたからといって悪いとはいえないと思う。実状に即したように物事は考えなくてはいけない。
ナイファンチ立ちは、体に重い物をつけた場合は、立ち易い、進み易い、退り易いという効用がある。この立ち方は、道場内だけではなくて、あらゆる場合を考えてみたい。この立ち方が将来、ピンアン・公相君と進んでいくとき、また、組手になったとき、どんな効用を表すかも考えてみたい。
中国拳法が、かかと中心の足さばきで、膝を伸ばし、運動の原則がない、自然的であるのに対して、空手が、爪先(上足底)中心の足さばきで、膝を曲げ、相手の外から内へという原則に立つ、相対的・意図的なものであることは、ナイファンチ立ちが空手の重要な基本的立ち方であることの理解に役立つであろう。
空手は体育となっているが、実際的でもあるのである。
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