父と会う機会の無かった方々へ(三女 真弓)

父、金城裕は、2013年10月10日に94歳で帰天いたしました。今このサイトを見ていらっしゃる方の多くが、実際に父と会って話をする機会が無かったことでしょう。父の思い出とその時々の父の言葉をお伝えしたいと思います。皆さんが父を身近に感じていただく一助となれば幸いです。

  最初に、実際に役立つ父の教えを二つご紹介したいと思います。一つは、空手の試合に役立つ重要な教え、もう一つは、社会に出て働き出した時のために覚えておきたい教えです。 平塚の家では、父以外は皆女性でしたので、家の中に大きな蜘蛛などが入ってくると、それを捕まえて外に出すのは父の役目でした。いつも素手で素早く捕まえるので、「お父さん、すごいね!どうして、そんなに上手にできるの?」と言うと、「相手に予感を与えてはいけない。」との言葉。私は、こんなところにも空手の極意が生きているのか、とひどく感心したものです。皆さんも是非、試合の時には頭に入れておいてください。「相手に予感を与えるな!」です。

もう一つの教えは実際には父の言葉ではなく、戦時中に父が上官から言われたというものです。「お寺の鐘は撞かれてから初めて鳴るが、人間はそれでは遅い。常に鳴り響いて待っていろ。」という教えです。これは、人に言われてから行動に移すのでは遅い。常に先の状況を予測して、指示される前から準備をしっかりしておきなさい。」ということです。この二つは実際に役立つ教えではないでしょうか。


空手師範としての金城裕には厳しい面もあったかもしれませんが、家庭では優しくて面白い父でした。子供のころにしたいたずらや失敗談などを面白おかしく語ってくれたものです。私たち三人姉妹に対しては、父が言うには『放任主義』で、私たちに「勉強しなさい。」や「~すべきである。」というような教育的なことをほとんど言いませんでした。その代わりに、私たちは普段の生活の中で、どんな大人になって欲しいと父が望んでいるのかを自然に学んだように思います。

私が小学校低学年の頃までは、平塚で七夕祭りが開催されると、戦争で手や足を失った傷病兵の方々の物乞いをする姿が見られたものです。幼かった私にとっては、悲しいと同時に恐怖心を抱かせる光景でした。父とお祭りに出かけた日、父は私の小さな手に幾つかの百円玉を握らせて、「これをあの人のお皿の中に入れてきて。」と言いました。お金を入れている人が誰もいない中、汚れた軍服の足のない人の近くまで行くことは、とても勇気のいることでした。でも、その日から、私の中にある傷痍軍人の方々に対する恐怖心は薄れていったように思います。

小学校三年生頃に父と出かけた時のことです。駅前の少し開けた場所で、若い外国人の男性が画用紙に描いた絵を地面に並べて座っていました。そばに置いた厚紙に「たびをしています。」と書いてあったような記憶があります。「あの缶の中に入れて。」と言って、父は私にお金を渡しました。半円に取り巻く大人たちの間をかき分けて行き、皆の見ている前でお金を渡すことは気恥ずかしいことでしたが、その外国人の方が見せてくれた笑顔に、私の気持ちはパッと明るくなりました。当時、我が家は経済的に余裕が無く、母が内職をして家計を助けていましたから、父がそっと「お母さんには内緒だよ。」と言ったことも覚えています。

小学校高学年になると、宿題の作文や感想文を父に見せて、漢字の間違えや句読点、言い回しなどを直してもらっていました。何についての作文だったかは忘れてしまいましたが、父から「ここには『博愛の精神』という言葉が適している。」と言われて、初めて『博愛』という言葉とその意味を覚えました。後になって思い返してみると、父に作文の手直しをしてもらいながら、父の価値観を刷り込まれていったのかなと思います。


平塚の自宅は、JRの駅からバスでさらに25分程の不便な場所にありますが、父の話を聞きたいという方々が、各地から、時には海外からもいらっしゃいました。父は、自分をより偉く見せようという虚栄心とは全く無縁で、また、誰かに対して引け目を感じるということもありませんでした。自分と人を比較して考えることもなければ、人と人を比べることもなく、どのような方に対しても常に同じように自然な態度で接していました。

アルゼンチン研修会の方々は、何十年も前から父と連絡を取り続け、来日された際には、沼津や板橋の道場で稽古をされていました。お互いが話す言語は知らなくても、空手で使われる共通の言葉とたくさんのジェスチャーで意思疎通には困らなかったようです。「上野の西郷さんの銅像を見たり、あちらこちら東京見物もしたそうだよ。」と、父が楽しそうに再現してくれた身振り手振りは、今でもはっきり思い出せます。

はるばるイタリアからも空手師範の方が何度もいらして下さいました。当時は、スマホの翻訳アプリなどありませんでしたから、タクシーで初めていらした際には、父と私は非常に感心したものです。父は、「本当の空手が知りたくていらしたそうだよ。」と心の底から嬉しそうでした。この方がクリスマスやイースターに贈って下さる、大きな箱いっぱいのチョコレートや見慣れないお菓子を母や私たち娘三人に分けるのも、父が楽しんだひと時です。

東日本大震災の数日後のことでした。ご自身も武道を教えていらっしゃるというアメリカ人の方が、長く日本に住んでいらっしゃる生徒さんのお一人と訪ねていらした時に、次のような質問をされました。「もしも、一本道で向こうからギャングの一団がやってきたら、先生はどうなさいますか。」と。そばで話を聞いていた私の頭の中には、周囲に人家の全くない殺風景な沖縄の一本道、それぞれにナイフや棒を持つ5~6人の屈強な男たち、10m位の距離を挟んで対峙する手ぶらの父、という場面が浮かびました。父はほとんど考える風でもなく、「そりゃ、逃げるよ。」と簡単に返答しました。質問をされた方の顔には、ちょっと驚いたような、もしかしたら、がっかりしたような表情が一瞬浮かんだように見えました。その方は、おそらく「まず、ナイフを持った一人目の男の腕を取り、同時に反対側から襲ってくる男の向こう脛を蹴って動きを止め・・。」というような具体的な対処法を期待していたのだろうと思います。私の方は、「さすが、お父さん!他の人とは違う!」と、ためらいもなく「逃げる」と言った父をとても誇らしく思いました。ハリウッド映画の格闘シーンさながらの返答だったら、私は逆に失望したことでしょう。父は、「特に理由も無いのに、大勢を相手にして怪我でもしたら馬鹿らしいだろう。」と言って笑い、今度は質問をされた方も納得されたようでした。「逃げる」という言葉は、身体的な優劣ではなく豊かな人間性に重きを置く父らしい答えでした。自身の空手、力と技に十二分の自信を持っているからこそ、堂々と発することができる言葉ではないでしょうか。

『日本武術・武道大事典』の編纂者とライターの方がいらした時には、次のようなご質問がありました。「なぜ、柔道でもなく剣道でもなく、空手を選んだのですか?」私自身も父に尋ねたことのない質問でしたから、どんな返答をするのだろうかと興味深く耳を傾けていました。父は、それまでよりややゆっくりした口調で、「それは、糸洲十訓に見られる平和と人間尊重の精神に心を惹かれたからです。」と答えました。そして、具体的に糸洲十訓の第一項の一部「決して突いたり蹴ったりして人を傷つけることがあってはならない」を引用しました。幼少期にクリスチャンの洗礼を受けた父が、糸洲安恒の謳う“教育”唐手の基本精神に共感したのは当然のことだと思います。父の著作の中ではしばしば、「人間尊重の精神を基調とした空手」「豊かな人間性」という言葉が使われています。空手の流派が増え続ける中、常に「本当の空手とは何か」を問い続けた父でした。糸洲安恒先生の教えが、父の求めた真の空手の根幹となる基本概念であったことは確かでしょう。父から空手を習ったことのある方には、糸洲安恒先生の流れを組む空手を学んだことに誇りを持って頂きたい、と私は考えます。また、今現在は別のタイプの空手をされていても、若しくは、将来空手から離れることがあっても、糸洲安恒先生が一番重要視されていたであろう「人間尊重の精神」はずっと心に留めておいて頂きたいと思います。


長い人生の中で父を一番喜ばせたものは、名声でも金銭でもなく、空手についての知識を得たいと父に会いにいらっしゃる方々、父から空手を学ぶ方々の存在でした。父を訪ねてくださった多くの方が、父に対する敬愛の気持ちを持ち続けて下さり、父亡き後も平塚の家を訪ねてくださったり、お墓参りをされたりしてくださいます。また、私にメールやお葉書などを引き続きくださる方もいらして、家族一同、大変感謝しております。

2023年の10月には、父の没後10年に合わせて、アルゼンチンとウルグアイから総勢13名の方々がはるばる来日され、父を慕う古くからのお弟子さん達と一緒に空手の稽古をされました。地球の反対側にも、父の遺志を引き継ぎ、先の世代へと伝えていこうとされる方々がいらして、大変心強く思います。

2013年、日本武道館発行の月刊誌「武道」11月号の伝言板に、父自身が用意していた他界を伝える一文を掲載して頂きました。ここでもう一度、亡くなる2~3ヶ月前に口頭で託された言葉をお伝えしたいと思います。「空手評論家金城裕、2013年10月10日、94歳にて帰天致しました。生前、皆様から頂きました御厚情に深く感謝致します。」


空手の師範というと、家でも大半の時間を型の練習や筋力トレーニングに費やしている、と思われるかもしれません。でも、私が思い浮かべる普段の姿は、机に向かって読み物か書き物をしている父です。大変な読書家で、ジャンルも多岐にわたりました。武道、スポーツ、人体、健康関連の読書は当然のことですが、日本史、世界史、日本の古典文学、古典芸能、生物、物理と、ありとあらゆる分野の本に目を通していました。いろいろな本を読みながらも、しばしば、頭の片隅で空手を考えるヒントを探っていたようです。

また、同じテーマについても複数の本を集め、物事を多角的な視点から捉え、理解を深めて普遍的な事実を見つける、という考え方でした。例えば、アインシュタインの相対性理論に関する本でも、専門家向けの難しいレベルのものはありませんが、イラスト入りの小学生向けのものから一般人に向けたものまで合わせて7冊残っています。父が自慢げに、「お父さんの知識はなぁ、浅くて広いんだぞ。」と言い、その「浅くて」という表現が可笑しくて、一緒に大笑いしたことを思い出します。確かに、何を尋ねても何らかの形で返答があり、「知らない」という言葉を聞いた記憶がありません。私が幼かった頃に、『パパは何でも知っている』というアメリカのホームドラマが放映されていました。内容はほとんど覚えていないのですが、題名だけは私自身の父と重なって忘れられないものとなっています。

蔵書のことに話を戻しますが、今、家に残っている一番冊数の多い分野は、日本語、文法、漢字などに関する本や様々な辞典類です。「何かを表現する時には、意図することが誤解されることなく相手に伝わるように、最も適した言葉で文法的にも正しく表現する必要がある。」という父の考えが、よくわかる蔵書となっています。この程度でよし、と満足することなく、常により上のレベルを目指していた父ならではと思います。探求心と知識欲に溢れた父から、学び続けることの喜びと内面的な豊かさから得られる充実感を、私は教えてもらいました。


多くの人がそうであるように、親がこの世から居なくなる日が来るとは想像しにくいものです。私も、父はずっとそばにいてくれて、いつでも私の心の支えになってくれる、と信じているようなところがありました。それでも、2013年の夏ごろには、一緒にいられる日はもう長くないのだ、と思えるようになりました。どうしても父に確かめておきたいことがありましたが、亡くなることを念頭に置いて尋ねているのだ、と悟られたくなくて機会を探っていました。

どういう会話の流れかは思い出せませんが、10月になったかならない頃、夕食の後で雑談をしている時に尋ねることができました。自分では、上手に会話に組み込んだつもりですが、繊細な父のことですから、今のうちに聞いておきたいという私の気持ちを感じ取っていたかもしれません。「お父さんは、人間として一番大切なことは何だと思う?」と尋ねると、少しの間を置いて、「誠実であること」という言葉が返ってきました。それは、私の中で既に予期されていた答えでしたので、「そうだよね。」と受け、それ以上深く語り合うことはしませんでした。何か決断を迷った時にいつでも意見を求めることができた父でした。父を失ってからは、「お父さんだったらどうするだろう?」、「この場合の誠実な対応とは?」と考えて、父の生き方を判断基準としています。


最後に、少し意外と思われる言葉を紹介したいと思います。父と空手について語り合っていらした方がお帰りになってから、父がふと呟いたものです。「本当は空手を必要としない世界が理想なんだ。」というものでした。空手を深く愛し、「次の世も また歩まんか この道を」という辞世の句を用意したことのある父が発した言葉です。その重みを踏まえて、私の願いで父の話を終わりにしたいと思います。  私たち人類が、人間尊重の精神に基づき、互いに尊重しあい、話し合うことで問題を解決する、そのような、父が理想としていた未来へと進んで行けますように!

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